桜…夕悸
陰が光に満たされて夕
あまりに大きな衝撃は、その瞬間には何も分からない。本当に大きな痛みは、実感することのほうが少ない。 本当に辛い痛みは、後からゆうるりと訪れる。ゆうるりと、訪れる。 それは小さな痛みの羅列。 痛みの小さ過ぎて気を失うことはならず、痛みの継続し過ぎて気の忘れることあたわず。それは身を殺しはせず、それは気を鬱にさせ心を蝕む。 肉は血となり、血は肉となる。桜花の色は桜全体が作り出す。その土壌も含めた桜全体が作り出す。桜をより美しく鮮やかに咲かせるためには、それに適した基盤が必要。 大地が沈む。 海の底に沈む。 海が世界を覆いつくす。 ならば埋め立ててしまえばいい。大地が足りないのなら、海を埋め立てて土地を増やせばいい。 どうせ人はある一定以上には潜れないのだ。どれほど深い海溝ができようと、たいした問題にはならない。 だがここで問題が生まれる。 どれほど深い海溝があり、その終着点には土がある。ではどのようにして、その土を取りに行こうか。人はどうせ、ある一定以上は潜れはしないのに。 ならば別のもので埋め立てよう。 これから生まれる、これからいくらでも生まれる厄介で面倒な廃棄物を使えばいい。 どうせ、人はその手に余るものの処理として、けっきょく、地の底に埋めるか海の底に沈めるかしかないのだから。 一石二鳥。 肉は地となり、地はやがて肉となる。 高い栄養価の上に成り立つ若木はすくすくと育ち、やがて鮮やかな大輪の花を咲かせるだろう。 薄暗い酒場だった。もっと照明を入れても文句など出ようもないほどに暗く、埃の舞う酒場で、二人の人間が檸檬水を飲んでいた。 「檸檬水もけっこうおいしいものね。たまに飲むなら悪くないかも」 「そうか?味があるんだかないんだか、ただの水よりうまくねぇと思うけどな」 「だったらなんでいつもこればっかり飲んでるのよ」 「檸檬と水の無駄遣い」 「うっわ、最悪。無駄遣いするほどの資源があるなら、ないところに回してよ」 「嫌だ」 「…前から思ってたけど、どうして紅真くんってそんなに、誰かのためにっていうのが嫌いなのかしらね」 「……助けるのが嫌いってより、助けられて生きてる人間が嫌いだってのがしっくりくるな」 「人という字は―――」 「支えあってなくても成り立つぞ」 「字の汚い人と達筆の人の字ってむしろそうよね」 壱与は半眼で同意した。 「そうなると、基本に忠実なのがもっとも達筆かもしれないね」 「芸術性がないからダメなんだろ」 「感性なんて人それぞれのもので、多数決の世界でしかないのかもしれないね」 腰を下ろしていたソファに体を投げ出すようにして、全身から力を抜く。背もたれに両腕を乗せて首を上げると、淡い光に照らされた天井が写った。 「紫苑くん…死んじゃったのかなぁ」 「―――紫苑は戻ってくる」 「…その自信の根拠を知りたいところなんですけど」 「あいつは桜を咲かせる。それまでは死なない。たとえ地獄に落ちても、何度だって戻ってくる」 「桜…。そういえば、こないだもそんなこと云ってたよね。ねぇ、なんのこと?」 「豊饒の大地を、桜の伝説にヒントを得て作るってことだ」 「桜の伝説…」 「突拍子もないし、あまりにも夢見がちな作戦だ。人道的な点からもいくらでも問題が出てくるな。しかもそれしか方法がないってわけでもないだろうし。それでも、あいつが云うなら、俺はそれに乗る」 「……その絆の強さが羨ましいな」 壱与が目を眇めて呟いた。背もたれに投げ出された腕は、今は彼女の膝の上にある。背もまた前屈みに傾斜を為していた。 「紫苑は俺の能力が役に立つから手を差し伸べただけだ。それでもあいつは「一緒に来い」と俺に言った。俺にはそれで十分だった」 「人生を変えた殺し文句ってやつ?」 「むしろ惚れた弱み…だな」 「あはは。惚気ね」 グラスの中で氷が揺れ、軽やかな音が響いた。 世界中の火山が、まるで示し合わせたように噴火する。 山が崩れ、大地が割れ、海がせり上がる。山と共に大地がことごとく海の底に沈み、その上に乗る全てもまた、泡となって消える。 神の手の一握り。 小さな大地を守ろうと力を尽くした誰かが、落ちた。 大地が揺れるその振動により、海に。 海は激しく渦を巻き、その誰かはすぐにその泡の中へ消えていった。 その他大勢の誰かと動揺に。 抗いようもなく。 それでも彼は疑いようもなかった。 誰かがそれで消えてなくなってしまうなど、思い浮かびもしなかった。 なぜならその誰かの本当の目的は、大地があらかた沈んでできるたくさんの屍にあるから。その屍に用があるから、大地が沈みきっただけではまだ消えないと知っていた。 誰かの目的は、大地を守ることにあるのではなく。 もっともっと貪欲で、凄まじいものだったから。 「黄鳥ー、ステージに上がってくれ」 「はーい」 胸を痛める彼の言葉を、今だけは振り払おう。 今だけしか、振り払えないのだから。 白いドレスを翻し、少女は舞台へのぼっていった。 |
炎が揺れる様はまるで蜉蝣
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一ヶ月以上たっているやん。やっと夕(ゆうべ)にまで来ました〜。 ご意見ご感想ありましたらぜひお寄せ下さいです---2004/03/20 |
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