朝露の君
空が蒼い
風が吹く
流れる川の色
静けさ
ACT-6
何事もなく、一生が過ぎていくとは。決して思った事はなかった。
けれでも、こんな事になるとも。思った事はなかった。
いつだって、幸せになれる路を探していた。
いつだって、最良の路を探してきた。
絶対に負ける事のない、強い心と、生き抜く決意を固めてきた。
紫苑が隠れ置かれていたのは、紅真の自室の奥に設置された小さな部屋だった。
紅真曰く、無駄にだだっ広いだけの部屋にある、唯一の利益。だそうだ。
ベットが一つに本棚が一つ。小さな椅子とテーブル。
その部屋は、たったそれだけを置くスペースが漸くあるくらいの広さしかない。
部屋には窓が一つに扉が二つ。
扉の一つは紅真――皇子の部屋へ。もう一つはこの部屋の風呂、トイレへ繋がっていた。
本来は、お抱えの護衛などが、万が一にも対処できるように控える部屋なのだろう。
その部屋には、必要最低限の物しか置かれてはいない。
特別に豪華にあしらったといった造りでもなく、一見すると、少しばかり大きな物置といった感じだった。
紫苑が紅真に買われてから、数週間が過ぎようとしていた。
紫苑の様態はかなりの回復を見せ、以前のような力強さとしなやかさが肉体に戻りつつある。
しかし、一度患った身体はそう簡単には回復しない。
紫苑は一日中、その小さな個室のベットの上で、周囲に隠されながら過ごすのだった。
「随分気に入ったようじゃないか、紅真」
自室への廊下を歩いていた紅真に声を掛けたのは、彼の父親であった。
彼と同じ漆黒の髪に紅い瞳。人を見下すような、下卑た笑を浮かべる口元。
狂気じみた光を放つその瞳には、彼を睨みつける紅真の姿が写されていた。
「何のことですか?」
紅真は自分の父親であるその男を、強く睨み付けながら返した。
嫌悪が滲んだその表情を、父親であるその男はむしろ可笑しそうに眺めている。
そんな父親の下卑た表情が、紅真を更に苛立たせた。
「この間買ってきた奴隷のことだ。飽きっぽいお前の事だからな。ニ、三日で飽き捨てると思っていたぞ」
「別に。わざわざ次を買いに行くのが面倒なだけですよ。あんな者、どれも変わらないでしょう」
「そうは思えんがな。随分執着しているように見える」
「執着はありません。ですが…少なくとも、私はあなたよりは飽きっぽくはないのでね」
あなたからは気長に見えるかもしれません。
紅真はそう付け加え、その場を立ち去った。
何かを探るような口ぶりの父親の口調と台詞に、実に不快な気分にさせられた。
「またか?紅真」
紅真に声を掛けたのは紫苑だ。
父親である男に話しかけられた後、
紅真は直ぐに自室へと辿りつき、そのまま紫苑を隠している小部屋へと足を運んだ。
開け放った扉を後ろ手に閉めた直ぐ後。
戸の閉じられる音と共に、
そちらに顔を向けた紫苑は紅真の不機嫌そうな顔に苦笑して言ったのだった。
声の中には、呆れと困ったような様子が含まれている。
「あいつは愚か者だけどな…。それでも馬鹿ではないらしい」
紅真は苦々しげに吐き捨てた。
苛立たしげに顔を歪める。
そんな紅真の様子を、紫苑は大して気にしていないという様子で見やった。
彼女の髪は、もはや黒ではなく、美しい銀色に輝いている。
先程から読んでいた本に目を落とすと、落ち着いた口調で言う。
「バレそうなのか?別に、俺はいつでも牢に入っていいぞ」
「…紫苑。お前、少しは慌てろよ」
「…今だけさ。いざって時は、きっとどうしていいか分からなくなる」
紫苑は自嘲気味に微笑んで見せた。
どれほど冷静さを装おうとも、どれほど考えようとも。
きっと、いざ自分が死ぬというような場面に立たされたなら、
生きるためにただがむしゃらになるしかできないのだと思う。
「出きる事しかできないような気がする」
だから、今は自分の体力を出きる限り回復させるのだと。
紫苑は本の文字を追いかけながら、静かに笑って言うのだった。
「紫苑……」
紅真はそんな紫苑の肩に腕を回して抱きしめた。
紫苑は何も言わずに、紅真の腕に収まる。
「紫苑…。絶対に、一人だけで勝手なことするんじゃねえぞ」
「わかってる」
紅真は何かに縋るように言った。
胸の内に渦巻く幾重もの不安が、彼の心を締め付ける。
「…食事でも用意させる」
紅真はポツリと言い、紫苑から腕を解いた。
食事は、いつも紅真の部屋の前まで持ってこさせる。
小部屋へ食事を運ぶのは紅真自身だ。
誰だろうと、彼は自分の部屋へ他人を入れはしなかった。
「…ばれてるな」
運ばれた食事を見て、紫苑が淡々と言った。表情一つ変えていない。
それとは対照的に、怒りに顔を歪ませているのは紅真だ。
今にも怒鳴り散らさんばかりに目を吊り上げている。
「黙って毒なんか混ぜやがって!」
直接怒鳴り込むよりも性質(たち)が悪い。
彼らの前に広げられている食事の数々。
その中の一つ。淡い色のブドウジュースに、それは盛られていた。
気が付いたのは紫苑と紅真 同時くらいだ。香りが通常と違う。
記憶を辿って辿りついたその匂いの素は、違えようもない毒の香り。
「その内直接来るんじゃないのか」
紫苑はさらっと言ってのけた。
紅真は今だ、怒りに身体を震わせている。
「・……」
毒入りジュースを見つめたまま、何かを考え込むように押し黙る紅真。
必死で何かに耐えているようにも見える。
「どうした?」
「……」
「…ふぅ…。いつまでもこんなに暢気にしてはいられないことは、
始めから分かっていた事だろう?今更何を考えているんだ?」
紫苑は溜め息をつきながら言った。
紅真は相変わらず何かを考えこんだように黙ったまま。顔を上げようともしない。
紫苑は再び溜め息をついた。諦めたとでも言うかのような溜め息だった。
「…紫苑」
「なんだ?」
漸く顔を上げた紅真に、紫苑はすぐさま返事を返し…その表情に顔を顰めた。
何かを決意したような強い眼差しでありながら…。それに禍禍しい狂気が見て取れる。
「何を考えている?紅真…」
紫苑はその瞳を険しくして、一言一言を噛み締めるように訊ねた。
彼が何を企んでいるのかが、その狂気から垣間見える。
「…殺す」
「紅真!!」
紫苑は叫んだ。
しかし、紅真は紫苑の叫び声など聞こえていないかのように、独り言のように言葉を続ける。
「親父の野郎を殺しちまえばいいんだ。国の奴等はあいつに毒されて腐ってきてる」
「紅真!!」
「一番弱いところは苦しんでる。誰も止めないし…悲しまない…」
「ダメだ!!紅真!!」
紫苑の叫び声には、彼女がいかなる時も纏っている余裕が感じられなかった。
幾分涙が混じったような、切羽詰まった声だ。
声だけではなく表情までもが苦渋に歪められている。
「ダメだ紅真!!そんな事をしたら反逆者になってしまう。
力で何かを服従させても、必ずどこかに綻びが生じる!わかってる事のはずだ!!」
死の上に、平和は決して築けない。
殺人を正当化することなんてできない。
紫苑の必死の声も、紅真には届いていないようだった。
紅真に何かに取りつかれたように、ふらふらとした足取りで立ちあがる。
その表情は今だ狂気に歪んだまま。
紅真は押し止めようとしがみつく紫苑をも振り払った。
「紅真!」
紫苑は必死で声を上げた。
しかし、紅真は振り返ることはせず。
「紅真っ!!」
紅真が出ていった後の閉じられた戸に、紫苑はただ叫び続けるしかなかった。
数週間振りに、彼女は涙を流した。
また…見ていることしかできない?
もう見ているだけなのは嫌だった。
力がなく、何もできない自分。
せめて…。
そんな祈りを捧げるくらいなら。
そんな奇跡に縋るくらいなら。
「殺してやる」
それだけの力ならあるではないか。
そのチャンスはいくらでもあったではないか。
そうする理由も。
「こうなることは分かっていたのに…!」
紅真は上下の歯を強く噛み締めた。
握り締める拳は、血の気がなくなり白くなってしまっている。
あの日。
燃え盛る赤い炎を見る目ながら感じた静かな怒り。
あの時はまだ希望があった。
大切な人の存在があった。
「奪われてたまるか」
大切な存在が目の前で危険に晒された時。
今までくすぶっていた何かが一気に膨れ上がったような気がした。
紅真は迷わず歩みを進めていた。
目指す先は―――
何も出来ななんて…言い訳だった…―――。
紫苑は涙をぬぐって立ち上がった。
もう逃げるのは嫌だった。
誰かに庇われるのも嫌だった。
助けてもらうだけの存在でいるのは嫌だった。
「行かないと…!」
たくさんの希望を背負っていた。
たくさんの祈りに救われた。
たくさんの願いの上に生き残っている。
それでも。
「もう…一人になるのは嫌だ」
死の悲しみは誰よりも知っている。
一人になる寂しさを知っている。
残される者の気持ちを知っている。
だからこそ。
憎しみの果てに得る物はない。
破壊の先に残る物はない。
平和は…積み重ねていく物だと。
知っている。
紫苑は外に飛び出した。
今だ万全ではない身体を引きずって走る。
長く伸びた銀色の髪が、彼女の軌跡を残すかのようになびく。
ここに居るのは、銀の髪の意味を知る者ばかり―――。
もう、死の朱(あか)は見たくない。
つづく
■あとがき■
イマイチうまく書きたいことが書き表せないです。
難しいよ〜(泣)。
ああ。これからどうなるんだろう?
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2001、8、25