月の精霊 星の王
***ACT-5***
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あれは誰だ? 俺は何を忘れている? 痛む心は何故? 酷く心を苛む罪悪感。 彼は夢を見た。 それはいつもと同じ夢。 美しい木洩れ日落つる庭。 その中央。 まるで光の柱に護られるかのように佇むその少女に心奪われた。 彼に背を向けていた少女は、彼がその庭へ足を踏み入れた気配を感じて、首だけを巡らせて彼の方へと振り返る。 その少女の姿に、彼は雷に打たれたような衝撃を受け、もう彼女しかいないと思った。 暫らくは無言で佇む。 余りの衝撃に言葉が紡げなかった。 見開かれた彼の瞳は一寸も少女からはずされることもなく。 その一心に見つめてくる彼の視線に、少女はどこか怒ったような表情と、傷ついたように瞳を揺らせるから。 彼はようやく我に返った。 「どなたですか?」 少女の透き通る鈴の音のような声が響き、彼は慌てて名乗った。 紅真。 それが彼の名前。 先日星の王の座を受けたばかりで、今日は月の王へと挨拶に来た。 ここは月の王宮の玄関へと続く路。 まるで大きな庭の如きそこは、色取り取りの草木が植えられている。 「ああ…、王からお話は伺っております」 少女は警戒心が消えたようだった。 表情が温和な物になる。……瞳の中に生まれた、どこか傷ついたような揺らぎは未だ微かに残ってはいたが。 「先ほどは失礼致しました。私の名は紫苑。 この月の王宮に仕えております…孤燈精霊です」 少女が名乗り、紅真はそこでようやく少女の瞳に写る愁いの正体を知った。 孤燈精霊。 それは死者の魂が輪廻の輪に戻ることできず、生者を介してではなくに現世に存在した姿。 云ってしまえばその存在はさ迷う亡霊のような者だ。 人々は畏れた。 精霊の名を冠しながらも、孤燈たる者達は明らかに他の精霊達とは違っていたからだ。 普通精霊とは能力も体力も弱いものだが、孤燈精霊は王の次に優れた種とされている。全てにおいて抜きん出た存在。 しかし人々が畏れるのはそこではない。 生者の身を通すことなく生まれてくる存在。 死にきれず、現世をさ迷う者。 人々は孤燈精霊には近付かない。 魂を吸い取られる。 現世に止まる孤燈精霊の代わり、彼等に接触した者は死者達の世へ送られる。 なんの確証もない数々の噂話は、それが嘘と知られても尚強くしつこく人々を恐怖に誘(いざな)う。 人々は孤燈精霊には近付かない。 孤燈精霊には親と呼べる者は存在しない。 この世でたった一人。 永遠に一人。 誰の手も借りず、自らの力のみで灯る炎。 それが孤燈精霊の名の由来。 おそらく、この紫苑と名乗る少女は数々の孤独と人々の畏怖の目に苛まれてきた事なのだろう。 紅真が彼女を見つめていたその瞳を、好奇の視線だと感じたのだろう。 孤燈精霊になど、普通は出会うことはない。 それほどに孤燈精霊の生まれる率も、また生まれた後に生き続ける率も低かった。 たいていは、生まれてすぐに空気に溶けるようにして消えてしまう。 だから紅真は表情を改めた。 王の――「星の王」の表情。 「御案内致します。……紅真様」 紫苑の瞳から愁いは消えていた。 やわらかく微笑む彼女に、紅真は今度は表情を変えず。 しかし胸中ではやはりその微笑みに心奪われていたのだった。 彼の少女への気持ちは時を追うごとに大きくなっていく。 強く激しいものになっていく。 言葉を交わし、同じ物を見、同じ時を共有する。 次第に心通わすようになったのは…いったいいつからだったのか。 触れられる事を酷く恐れる彼女にはじめて触れたのは? その美しい月色の翼を見たのは? その翼に触れながら、その美しい翼が好きだと伝えれば、彼女はとても嬉しそうに微笑んでくれる。 翼に触れられる事が心地良いと。 そう云って穏やかな安らかな表情を見せてくれる。 細く白い腕は、少し力を入れれば折れてしまいそうに華奢なもので、透き通るようなその肌は、空(くう)に溶けて消えてしまいそうなほど儚く写る。 そっと抱き締めると暖かく。 抱き締められると心地良く。 いつからだろう? それが当たり前になったのは。 なくてはならなくなったのは。 彼女の哀しそうな表情はなぜ? そうだ。 彼女はとても不安がっていた。 だから誓ったんだ。 ―――君を必ず思い出す――― そう誓いを立てた。 他の誰でもない。 この世でただ一人。 たった一人。 愛する彼女に。 銀の髪が揺れる。 藤色の瞳が不安に揺らめく。 紫苑。 たった一人の彼女に誓った。 彼は夢を見た。 それはいつもと同じ夢。 いつもと同じ。 目覚めた時。 夢は記憶から消えている。 彼は一筋の涙を流した。 消えないで。 消えないで。 消えないで。 心の底にある、最も大切なこの記憶。 夢から覚めても消えないで。 この掌に残っていて。 掬い取った水が、掌から零れ落ちる。 僅かに残る雫からは、何も見えては来ない。 決して忘れないように。 僅かに残る雫を小瓶に移し溜めるように。 夢の欠片を心に止める。 一つ一つ。 いつかそれが全ての記憶になるように。 彼は一筋の涙を流した。 思い出したい。 愛するその人に逢いたい。 大切な記憶を覚えていない自分の不甲斐なさが許せない。 けれどそれよりも。 揺らめく瞳。 愛するその人の、不安そうなその表情。 寂しさと孤独を与えた自分。 ただ。 彼女が微笑んでくれるように。 たった一人。 永遠に一人。 彼女をその孤独から救い出す。 そのために、自分はたった一人に誓ったのだから。 |
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