+ 其は眠りにつき  第四…「-aya-其は絡まり縺れ解けそして」 +









 触れた手は暖かかった。


 手当てをするのだと、それは云った。
 云いながら、戸惑うように自分を見ていた。

 きれいな肌。きれいな髪。きれいな顔。
 傷なんて一つもないような、清潔な人間。自分と同じ子供。
 きっと、目の前にいるこのきれいな子供は、灰色の世界など見たこともないのだろう。
 こんなにきれいな所にいるのだ。きっと、自分のように汚れたものは片端から排除してきたのだ。時に笑い、時に顔をしかめながら、淡々と排除してきたのだ。
 だから、自分を排除しようとその腕を伸ばしてきたのだ。

 そんな思いを込めていった言葉だった。怒鳴らずにすんだのはなぜだろう。
 もう、そうすることもできないほどに、体も心も冷えていた。寒さに、冷え切っていて、動けなかった。
 せめて。せめて目だけはそらさずに。
 弱みを見せたらおしまいだと思った。
 けれど返ってきたのはひどく激しい怒り。否定の言葉。

「そんなこと…そんなことしません!」

 目の前にいる少年は怒鳴って、慌てた様子でその口を塞ぐ。静かに耳をそばだてるようにしてから、夜の静寂が変わるのことがないのを確認してだろう。安心したように肩から力を抜いた。
 そんな少年の姿を見てから気がついた。
 ああ、そうか。
 大声を出したら、誰かに気がつかれてしまうかもしれないんだった。

 そんな当たり前のことに気がついてから、ようやく不思議に思った。
 なんで、目の前にいるこの少年がそんなことを気にするのだろう?
 自分は「ふほうしんにゅうしゃ」で、少年にしてみれば犯罪者なはずなのに。

 自分の頭がぼんやりとしている。ぐるぐると疑問ばかりが湧き上がってくる。
 自分で自分がわからなくて、ひどく心細くなってきた。
 自分がどうなるかわからない不安のなのだろうか?
 自分は混乱しているのだろうか?

 今にも、自分が泣き出してしまいそうで、そんな自分の状態すらもがわからなくて、カズマはただ目の前にいる少年をぼんやりと見上げる。

「怪我をしている人が目の前にいたら手を貸すのは当たり前のことです。困っている人を見捨てるような人間だとは思われたくありません」

 少年は声音を落とし、しかし力強く云った。
 怪我をしている人が目の前にいる。助けるのは当たり前のこと。

 そんなのは…知らない。

「誰にも…俺のことは云わない?」
「あなたがそれを望むなら」

 答えは簡潔なものだった。

 知らない。
 そんなのは知らない!!
 そんなに暖かいのも、そんなにきれいなのも、そんなに―――。

「……」

 少年の目を見つめながら、思わず笑い出しそうになった。
 自分の心はこんなにも震え、怯え、不安に満ちているのに。なぜ、少年の瞳に写る自分はあんなにもまっすぐなのだろうか。
 自分はいつだって、すべてに逆らって生きている。
 弱い自分に逆らって生きている。

 でも、時には疲れることもある。
 いや、もしかしたら、自分はいつだって疲れていたのかもしれない。
 無理をしていたのかもしれない。
 そしてきっと、そんな自分を気にいっていたんだ。信じているんだ。

 でも、でも。
 たまには、休んでもいいのかな?
 ほんの少しだけなら、休んでもいいかな?

 泣き出してしまう直前の、震える瞳を覆い隠しているのは、自分。
 まだ不安は消えない。
 でも、うそはないと思った。そのまっすぐで、深い、深い、赤。

 そっと、腕を伸ばしてみる。
 少年は微かに微笑んでカズマの腕を取った。
 まだ戸惑いながら歩くカズマの腕を引き、カズマの傷を気遣ってだろう。注意深い動作で室内に招き入れた。

 座るように促されたそれは、どうやらベットらしかった。いままで触れたこともないほどスプリングの効いたやわらかなベットに、カズマは思わずバランスを崩して倒れそうになる。なんだか格好悪くて、気づかれたかと少年を窺い見るが、どうやら少年は何か探し物をしているらしい。もうこちらを見てはいなかった。

 カズマの傷を見て、少年はわずかに眉をひそめた。
 右腕にこびりつく血をぬぐい、薬を塗り、包帯を巻いていく。手の甲に触れられて、カズマは少年の手から自分のそれを離した。
 驚きのあとには不思議そうに見上げてくる少年に、ただ曖昧に答える。

「ここは…いらねぇ。ずっと前からあって、なおんねぇ…から。なおす気も、ねぇ、から……」

 傷の手当ての最中、交わした言葉はそれだけだった。
 少年は納得のいっていない表情を見せたが、何も云おうとはしなかった。

 少年がカズマの腕からその手を離す。
 自分でも驚くほど、その言葉は自然に、素直に出てきた。

「…サンキュな」

 こんな言葉を云うのは初めてかもしれない。こんな状況にあるのもだ。
 なんだかすごく胸がどきどきしていて、顔が熱い。
 そんな自分の様子を知られたくなくて、カズマは少年から顔をそらした。横目にそっと窺った少年は、小さく微笑んでいた。

 そんな顔をされたから。
 そんな顔を見てしまったから。

 どきりと鼓動がひとつ跳ね、カズマは自分の胸がひどく悲しくなるのを感じた。
 寂しくて、悲しくて、泣きたくなるのを感じた。
 でも、云わなければならない。
 もう、ここにいる必要はないから。
 だから―――。

「もう帰る…な…」

 云った。

「まだ…!もう少しいても…」

 引き止めてくれる少年の言葉が、ひどく、嬉しかった。
 けれどそれを振り払う意味も込めて首を横に振る。動作に力が入らないのは、痛みが体を走るのは、まだ、傷が癒えていないせいだと思った。

 理由を問うてくる少年に、呟いた。
 音が自分の耳に入って、初めて自分が何を云ったのかに気づき、愕然とする。

「え?」

 不思議そうな少年の声。
 驚愕と困惑が入り混じった瞳。

 覚悟を決めた。
 少年の、その深紅の瞳をまっすぐに見つめ返して、今度ははっきりと、自分の意思で。

「俺…アルター能力者だから。壁の…外にいるから……」

 自分の声なのに、自分の言葉なのに。
 まるで別の誰かのようだと思った。
 それほどに、情けなく聞こえた。

 少年は何を云われたのかわからないような、ひどく驚いているようにも、呆然としているようにも見えた。
 どちらにしても、結果はきっと同じ。
 こんどこそ、彼は自分を排除しようとする。

 なんで心がこんなに苦しくなるのだろうか。
 今夜はそればかり考えているような気がする。

 それからも、少年の瞳からも逃れたくて、もう、耐えていられなくて…カズマは外へと続く硝子戸に足を向けた。
 とたんに掴まれた腕。
 警戒をにじませて、カズマは少年を睨みつけていた。

 たとえ自分が何を感じても、自分はどこにも捕らえられない。何にも囚われない。

「あの…名前を…教えてはいただけませんか?」
「名前?」

 そんな思いを込めて相対した少年から出た言葉は、カズマにとってあまりにも予想外なことだった。
 だから拍子抜けした。
 まるで馬鹿みたいに、鸚鵡返しに訊ねていた。

「はい。僕は、劉鳳っていいます。あ、あの…あなたは……」

 少年――劉鳳は名乗った。
 名前を名乗る。
 そんなこと、今まで一度だって考えたこともなかった。

 だって、そんなものを聞いてもべつにどうしようもなかったから。
 名前を聞いて、呼び合うような相手なんていない。
 自分の名前だって、本名かどうかさえあやしい。苗字だってない。

 この先呼び合う機会があるかどうかもわからないのに、名乗り合ってどうするというのか。
 それでも…目の前にいるこの少年は、自分の名前を尋ねるのだ。
 そして、自分の応えを待っている。

「何で?」

 思わず訊ねていた。

 なんで?
 なんで、わたしの名前が知りたいの?

「…あなただから…です。きっと……」
「俺、だから?」
「はい」

 わたしの名前だから?
 だから、知りたいの?
 わたしだから、知りたいの?
 わたしを、知りたいの?

 なんで?
 なんで―――…。

「何でだよ?」

 疑問は素直に言葉となっていた。
 少年の逡巡するような瞳。
 やがて、少年は何か覚悟を決めたような瞳でカズマをまっすぐに見つめて、そして云った。

「アルターを持っています…僕も……」
「おまえも?」

 答えを聞いて、少年が――劉鳳の表情が、その瞳が、自分のそれに良く似ていると感じた違和感の理由が知れた。
 同じだったのだ。

 こんなにも単純にそれを信じてしまえる。
 それこそが、きっと、少年の言葉が真実だということの証明なように思う。

「……カズマ、だ」

 だからというわけでもないのだ。
 ただ、名乗りたくなっただけ。
 この自分の名前というものを、目の前にいるこの、「劉鳳」という名のアルター能力者に。

 「劉鳳」に「カズマ」を刻み込んでやりたくなった。

 だから、名乗ったのだ。

「カズマ…さん?」
「さんってなんかへんだよなぁ…。カズマでいいぜ。俺も劉鳳って呼ぶし。つっても、次にまた会うかどうかもわかんねぇけどな」
「そんなこと…!」

 自分の周りにはそんな丁寧な言葉を使う人間なんていなかったから、なにかおかしくて笑いながら云えば、劉鳳は否定するように言葉を荒げるから。
 だから、最後まで云わせない。
 気づかれたら、やばいんだ。

 忘れてるだろ?お前。

 おかしくて、おかしくて。
 今まであった寂しさとか、不安とか。
 そんな感情、一気に消し飛んだ。

 今の俺は機嫌がいいからな。
 今度は、こっちが約束してやる。

「今度もし会えて――もっとも、次に逢えた時に、俺だって気がつくかなんてわからねし、会えるかもわからねェけど…そしたらさ、お前に、なんか礼でもしてやるよ。一応な」
「礼?ですか?」

 言葉にすればきちんと返ってくる返事。
 それにますます気分が良くなるのを―――おかしくておかしくて、なんだか楽しくなるのを感じながら、カズマはまた言葉にして返した。

「ああ。何がいい?俺が持ってるもんなら…まぁ、ドーナツ以外ならやってもいいか…う〜でもな〜。まぁ、そん時になってから考えるか。また会うかどうかもわかんねぇんだし」

「じゃぁな」

 そして最後に云う。
 今度こそ、自分は帰るのだ。

 あの、灰色の世界へ。

 自分テリトリー――生きるべき場所へ。


 硝子戸の方へと足を向けようとして、カズマは劉鳳の腕に捕らえられる。足を止めて振り返れば、劉鳳は慌てた様子で、何かを探し出してきた。

「あの、これを…」

 劉鳳が差し出してきたそれは緑のきれいな石のついた、至極小さくなペンダントだった。どんなものかは知らないし、カズマには皆目見当もつかないが、とても高価なもののようには見えた。
 そんなものをなぜ劉鳳が差し出してくるのかも、それを受け取ってしまってもいいものかを迷っていると、劉鳳はカズマを説得するかのように語る。

「これはこの世に一つだけのものだそうです。持っていて下さい。僕は、必ずあなたを見つけます。絶対に、またあなたと会います」

「そして、あなたを手に入れます」

 最後に云った劉鳳の台詞。
 それに、弾かれたように顔を上げ、劉鳳の瞳を見る。
 彼はほんの少し微笑っていたようだった。自信に満ちた、力強い光をたたえていた。

 こういうのは嫌いじゃない。
 手に入れられるなら、やってみるといい。
 その前に、自分が彼を手に入れる。

 挑発するようににやりと笑って、カズマは劉鳳の手から差し出されたペンダントを受け取る。
 そのまま、今度こそ夜の闇の中へと身を投げた。
 夜気の冷えた空気が、妙に火照った体に心地良かった。

 夜の闇をまっすぐに駆けていく。
 決して振り返らずに、このまま帰るのだ。

 触れた手は暖かかった。

 カズマは先ほど受け取ったペンダントを走ることを止めることのないまま、首にかける。
 なにがあっても手放さないようにしよう。
 奪われないために、強くなろう。

 壁が見えた。

 自分を虹色の光彩が包み込む。
 乗り越えられない壁なら崩せばいい。
 そうして進んでいけばいい。

 なければ奪ってでも手に入れる。
 なにもかもすべて。

 絶対に立ち止まらない。


 たとえまた、劉鳳。お前に会ったとしても。


 触れた手は暖かく、けれど自分は灰色の世界で生きていく。

 どんなときも、立ち止まることなく―――生きていく。









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ちょい本文長くなりました。「aya」はそのまま「綾」です。糸です。捻りなしです。
解けは「ほどけ」として漢字変換しました。「とけ」とも読めるので書いときます。
だんだんと本文とタイトルの関連性がなくなってきている気がしてます。
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