「あいしてる」5題・切望編 3-しあわせだといって-

 初めて引き合わされたのは、冬の真ん中の頃のことだった。枝にも地にも雪は積もり、あたりは雪の青に煌めいていた。
 その中に佇む何も無い存在。悲しみも、憎しみも、喜びも、怒りも。何もかもが抜け落ちたその面。雪白の肌の美しさに、紅真は我を忘れるほどに魅せられた。



 見上げればあの日と同じ空の色だった。珍しく雪の止んだ日の、日が出てるのに薄暗い空。冬はいつもこうだ。眩しさに目を眇めるような日は、ここでは得られない。
 紅真は常世の森を思い出した。紫苑が行ったしまった邪馬台国からそう遠くはない――あらゆるところを巡る陰陽連の刺客たる紅真らにすれば、あの程度の距離はまさしく近場だ――位置に広がる深い森。そこでなら、冬も日差しが眩(まばゆ)いのだろうか。
 晴れた日の空は、蒼く、蒼く、澄み渡っているのだろうか。
 日の光のはしごが、天から地へと伸ばされるような情景が、雪に閉ざされる厳冬の季節にも与えられるというのだろうか。
 もしそうであるならば。
 紅真は思う。ああ、と思う。
 紫苑が行ってしまうのも、仕方のないことだ。

 あれはいつの日のことであったか。紅真が初めて紫苑の表情の動くのを見た日。それもやはり冬の晴れ間のことだった。
 灰青色の雪がどこまでも広がっていた。踏み締めても踏み締めても、大地が顔を覗かさぬほど深く高く山積した雪の粉。今日の陽の光に溶かされて、すぐに訪れる夜の冷たさに晒されて、明日の朝にはもう、粉は氷塊へ変わってしまうだろう。
 粉雪の下には雪がある。雪の下には氷がある。元は雪だった氷がある。
 その下にある土の、その内に眠る草木の芽に、紅真は終ぞ意識を傾けたことなどなかった。あの日までは。
 冬に死んではいけない。
 雪の上で死んではないけない。
 まして冬の晴れ間、溶け逝く雪の中でなど、死んではいけない。
 あの時、紅真は思ったのだ。笑う紫苑の横顔から目が離せぬまま、思ったのだ。
 お前の身体(からだ)が氷の中に閉ざされてしまっているのを見つけてしまったら、自分のものにしたくなってしまうではないか。
 雪原の中で、雪に包まれるようにして眠っていた紫苑に、貴重な冬の日の日差しを全身で浴びていた紫苑の体に影を作り、紅真は呆れたのだ。目蓋を落としていた紫苑がその瞳を開き、寝惚け眼で紅真を見つめていた。横になっている紫苑のすぐ隣で、仁王立ちで見下ろす紅真の姿に、紫苑が何を思ったのか。紅真には知れない。
「莫迦だろ、おまえ」
 こんなところで眠りこけていたら、死んでしまうではないか。
 心底呆れて紅真が云い、そして、紫苑は初めて、紅真の前でその表情を解かしたのだ。
 それは笑みであった。声も立てず、歯ものぞかせず、ただ唇の端が僅かに持ち上がった程度。目蓋は僅かに落ちたが、弧を描くほどであったかといえば、定かではない。
 それでも確かに、紫苑は笑っていた。
 うっすらとしたその笑みに、紅真は譬えようもなく焦りを感じさせたれたのだ。何にかは分からぬ。ただ、何かに急き立てられてでもいるかのような焦燥に駆られたのだ。
 そして紫苑は云った。

『おまえに見つけてもらうためなら、それも悪くないな』

 莫迦だと思った。こいつは本当に阿呆だ。
 紅真は思った。
 死んでもいいなどと、まだ、思っているのだ。あまつさえ、それを口にすることに考慮しないのだ。
 夢潰え、目的を達成せぬまま、この世から消えてなくなってもいいのだと、まだ、思っているのだ。何もいらぬと、価値のあるものなどもはやないのだと、何もかも失ってしまったのだと、まだ!!
 紫苑は思っているのだと、紅真は感じ、そして、途端に空しくなった。
 だからそれは紫苑への言葉などではなかった。空しさに飲み込まれぬように、己を振り立たせるためのものであった。
「俺は、不幸なんかじゃないっ」
 この身一つある。それだけで、何物にも代えがたい。何を諦めることの許さなぬ意志、それだけで、何者にもなれる。それは紅真の矜持であった。
 紫苑が紅真を振り向く。その瞳が何を見出したのか、紅真にはやはり解かりはしなかった。その面に浮かぶ色が驚愕であるのか、そうではないのかさえ。けれどそのあとの紫苑の表情は、確かに笑顔だったのだ。
 あの、うっすらとした笑みではない。大輪の輝き、匂い立つような笑み。その笑みを幸福と云わず何を幸福であると信じればいいのか。
 ここでまさしく笑っているのに、なぜ、こんなにも遠いところで微笑んでいるように感じるのだろう。紫苑と紅真の距離は、たった一歩の距離しか離れていないのに、紅真には、紫苑がどこにいるのかが分からなかった。

 一歩を踏み出すと、積もった雪の潰れる音がした。紅真は足元に視線を向ける。
 きっと、紫苑がここを捨ててゆくことは、とうの昔から決まっていたのだ。こんな厳冬の場所ではない、年中陽の光で眩しい場所へ。彼が、求めるところへ。
 冬の厳しさと、そこにある切なく儚いものなど顧みずに。
 行ってしまう。
 紫苑は、行ってしまう。
 もう、行ってしまった。

 ならばと思う。
 紅真は、紫苑に思う。
 冬に死んではないけない。
 雪の上で死んではないけない。
 まして冬の晴れ間、溶け逝く雪の中でなど、死んではいけない。
 あの時思ったように、紅真は何度でも思うのだ。
 雪白のお前は、雪原の中ではなく、草原の上で死ね。
 白銀のお前は、灰色の空の下でなく、蒼穹の光に照らされて逝け。
 己の魅せられたお前は、その姿を氷に閉じ込めるでなく、芽の虫の、腹に収まり消えてゆけ。
 どうか、この目に触れてくれることないように。
 あの日に見た笑顔だけ。花の咲くような笑顔でなく、うっすらとしたあの笑みだけが、紅真に与えられた紫苑の幸福であれと、胸に抱いて。
 紅真は目を閉じた。




 幸せだといって。そんな遠いところではなく。
 どうか、僕の側近くで、幸福に笑っていて。
 あの冬の日。本当は、ただそれだけを伝えたかったのかもしれない。




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前日に話は出来てたけど、書き上げる気力が潰えた。
written by ゆうひ 2008.11.24